咬合のバイオメカニクス
はじめに
口はからだの頭側の開口部である。
口を閉じて上下の歯がかみ合うと閉鎖される。
かみ合うことを歯科用語で咬合とよんでいる。
しかし上下の歯がかみ合うだけで口の機能が営めるわけではない。
<噛める>とは口に摂り込んだ食べ物を嚥下に適した状態にかみ砕くことができることであり、いつまで噛んでいても食べ物をかみ砕き飲み干せないとき、ヒトは<噛めない>という。
上下顎の歯のかみ合う面に乗せた食物に圧縮や剪断などの加工を行うのが<咀嚼>における歯の働きである。
顎口腔の構造の維持の鍵を握るのも系に働く力である。
皮質骨の厚みや骨梁の走行、咀嚼筋の量や繊維の太さなどが歯の本数や咬合力の変化に伴って変化するのは負荷の変化に適応する生理的変化であり、歯周病や顎関節症の病態にはその力が病理的変化に関与した跡が認められる。
歯科医療に従事する私どもには、顎口腔の力の作用を知り、力の異常を適確に捉え、問題なく適切に対応できる努力が求められている。
噛みしめるという動作を科学してみましょう。
1.筋の働き
下顎骨には実に多くの筋が付着する。頭蓋との間には咀嚼筋群が、舌骨との間には舌骨上筋群が、皮膚との間には表情筋群が走行する。下顎骨はその両端2箇所に頭蓋骨との間の顎関節がある。
こうした構造は人体の他の部位にみあたらないが、器官の動作にこれほど多くの筋が関与することも異例である。
また咬筋は深部と浅部に、側頭筋の垂直部、斜走部、水平部の3つに分類されるが、たとえば側頭筋の垂直部はこめかみの辺りから下顎骨筋突起の基部付近を結び、水平部は耳介の上部と筋突起先端付近を結ぶので、同じ筋でも各部の働きは異なる。
その各部がさらにそれを動かすために独立した複数の部分にわかれるから、関連する筋やその部分の数がとても多い。
一般い言われるようにもの動きは自由度が6である。顎運動は左右2ヶ所の顎関節があるため、片側の顎関節下顎頭が下顎窩内を前後、内外側方向の2つの自由度で運動するとき、反体側の下顎頭は下顎頭間距離を半径とする円周状の運動をするのみで、自由度は1である。
下顎は両側下顎頭間軸周りに回転可能なので、さらに1を加えて、自由度は計4となる。
下顎の6自由度運動とは、両側の下顎頭がわずかに下顎窩に近づいたり遠ざかったりするのを含めての話である。
その4ないし6の自由度に対し、下顎の筋やその部分の数は優に20を超えるのだから、かなり多い。
同じ大きさ、方向の咬合力を同じ歯に発揮するにも無数の筋活動パターンが可能であり、そこから一つを選ぶには多くの労を要する。
しかしながら一定の咬合力を持続する静的条件下では、同一の咬合力を発生する筋活動パターンは個人でほぼ一定である。
何を基準に筋活動パターンが選ばれるかは不明だが、顎関節負荷の最小化、筋力の最小化、筋の弾性エネルギーの最小化など様々な仮説が考えられている。
2.顎は三級のてこである
矢状面に投影した下顎骨の前端には歯列、後端には顎関節が位置し、中間には閉口筋群がついている。
顎関節を支点、筋の停止部を力点、咬合力が生じる歯を作用点とすれば、それらの配置はピンセットや和鋏と同じ3級てこと考えれれる。
3級のてこは支点の力の負担が少ないためから顎関節にかかる力は小さいといわれているが、そうでもない。てこの級よりも支点と力点、作用点の距離の影響が大きい。
刃と力点が近い和鋏と先端までの距離が長いピンセットでは、対象への力の伝わり方の違いは一目瞭然である。
そして対象に伝わらない力は支点が受け止めるしかない。
閉口筋の張力は顎関節と歯列の両方に同時に圧縮力を生じる。
筋の合力の作用線と顎関節の距離が同じ作用線から歯までの距離より短ければ、咬合力より顎関節負担のほうが大きくなるのは、モーメント均衡式の示すところであり、筋力が同じならば咬合力は歯と筋合力作用線の距離に反比例する。
3.それぞれの歯の咬合力負担能力
しかし、歯種による最大咬合力は歯列上の位置のみでは定まらない。
各歯種の最大咬合力は個歯咬合力として既に計測されている。
計測対象歯の最大咬合力を計測する際、対合歯の数歯を連結して咬合力負担能力を増強すると、計測対象歯の負担能力に応じた最大咬合力が記録されるというのである。
個歯咬合力は第一大臼歯が最大で、第二大臼歯、小臼歯の順に減少し、個歯咬合力の相違は歯と筋合力作用線の距離の相違より大きい。
4.歯列に分布する咬合力
上下の歯列が最大接触面積で噛みしめを行うとき、多くの歯の多くの咬合接触面に同時に咬合力が現れる。
咬合接触面はそれぞれ異なる方向を向き、咬合力は咬合接触面間に面と垂直な方向に働くから、咬合力の方向は当然ながら面により異なる。
咬合力の大きさは、初期接触時点ではほぼ均等かもしれないが、やがて面ごとに多寡を生じ、各歯が負担する咬合力も不均一になる。
咬合が正常であればすべての咬合接触点に同等の咬合力が伝達されるとものの本には書かれているが、これは疑わしい。
噛みしめ時、閉口筋群の筋力は下顎骨を頭蓋方向に拳上し、歯列には咬合力が、顎関節には関節負担が生じる。
咬合力が少し増すと、歯はまず歯根膜を圧縮しながら歯槽に嵌入し、次いで歯槽骨の変形を伴いつつ顎骨に沈み込む。
他方、顎関節では、まず上下の関節腔の圧縮が、次いで関節円板の圧縮変形が生じ、下顎頭は下顎窩に向かって変位する。
下顎頭の変位は歯の変位より大きく、下顎骨は近心端に比べて遠心端がより大きく拳上されるから、歯列遠心の歯は近心の歯より強い圧縮力を受ける。
その勾配は著しく急峻で、左右片側歯列に咬合力の合計の半分が負担されるとき、第二大臼歯にはその半分の25%、第一大臼歯に15%、第二小臼歯に3%強、第一小臼歯に3%弱、前歯は1%内外が配分される。
顎骨の複雑な変形も咬合力の分布に影響を及ぼす。
有限要素シミュレーションの示すところによれば、咬頭嵌合位での噛みしめ時、矢状面内では下顎角が開大し、水平面内では下顎角間が離開し、前頭面内では両側の下顎角部が外側に翻転する。
5.臼歯欠損の影響
噛みしめ時のバイオメカニクスへの影響が著しい歯科口腔疾患といえば、まずは歯の欠損である。
歯の欠損は、後方臼歯に始まって前方歯に及ぶことが多く、後方臼歯が欠損した短縮歯列は代表的な欠損形態である。
短縮歯列の審美性や咀嚼機能への影響は限定的で多くの患者が容認する範囲にあることや、短縮歯列の放置が残存歯の咬合を継続的に変化させたり新たな障碍や疾病(たとえば顎関節症)の危険を増したりしないことを根拠に、この状態への欠損補綴の必要を限定的に捉える治療理念が提唱され、これも短縮歯列の語で呼ばれている。
短縮歯列でも、歯列上咬合力には大きな近遠心的勾配が観察される。
最大噛みしめ時の咬合力について比較すると、後方歯の欠損によって残存歯列全体の咬合力は減少し、一方、個々の残存歯は一様に咬合力負担を増す。
前者は筋活動の低下に加えて筋力の配分が咬合力から関節負担に傾いた結果であり、後者は咬合力負担歯の減少の影響が筋活動低下の影響を上回ったためである。
有限要素シミュレーションが推定した顎関節負荷は漸減の傾向を示した。
短縮歯列が顎関節症の危険を増さないとする疫学研究の成果を支持する結果である。
反復するが、歯列短縮の影響が限定的でありえたのは、筋活動が低下したためであろう。それは歯列短縮に対して生体が示した適応であろう。
しかし個々の歯の咬合力、歯列全体の咬合力、顎関節負担の何れもが変化するとすれば、何に対する適応なのだろうか。
それはどうやら咬合力が集中する歯列最後方歯の咬合力負担に対してらしいのである。
歯列を最後方歯から順次短縮して求めた最後方歯の咬合力を、その歯種の歯根膜面積で除して単位歯根膜面積あたりの咬合力を求めると、どの歯も0.8N/m㎡前後となる。
歯周組織の負担能力に応じて噛みしめ強さが制御されていることを伺わせる結果といえよう。
6.歯の変位と形歯列の変形
咬合力の作用で上顎臼歯は一般に口蓋側歯根方向に変位し、下顎臼歯は舌側方向に変位し、変位量も上顎に比べて小さい。
下顎臼歯の変位方向は、咬合力の着力点によらずにほぼ一定だが、上顎臼歯では咬合接触部位や咬合力方向によって様々であり、この違いは歯槽骨の骨密度など解剖構造の相違に由来する。
咬頭嵌合位での噛みしめ時、歯列の全形は上下額とも臼歯部の幅径が減少し、変化量は下顎に比べて上顎で大きい。
歯列幅径の減少は歯列弓長を減じ、隣接歯間の接触を強化する。
噛みしめ時と同様の変形が咀嚼の終末位近傍のパワーストローク中に生じるとすれば、隣接面の接触力を増すことで食片圧入の防止に寄与するであろう。
片側の上下第一大臼歯間で食品を噛み潰す動作に擬してレジン小片を咬合面間に置き、噛みしめを行わせると、咬合歯以外で歯列幅径が減少するが、その量は下顎が上顎を上回る。
付着する多くの筋が下顎骨の変形を促すのに対し、上顎骨への筋力の作用は間接的なためである。
下顎に比べて上顎の歯周組織が変形しやすいことも、咬合歯の被圧変位の他歯への波及を弱めたのであろう。
どうやら上顎歯列の変形は、主に咬合力による歯の変位がもたらし、下顎歯列の変形は歯の変位に顎骨変形の影響が重畳して現れるようである。
7.個々の歯に働く咬合力の合力
個々の歯、とりわけ臼歯には複数の咬合接触面があり、そこにはそれぞれ方向や大きさの異なる咬合力が働く。
歯周組織が受け止めるのはそれらの合力である。
着力点の異なる力の合力は、一つの軸に沿う力とその軸周りのモーメントに合成される。
このときの力は、あたかも木ねじを木にねじ込むときのそれのようで、これを<レンチ>と呼ぶ。
咬合力合力のレンチ軸が個々の歯の咬合面を貫く点を下顎臼歯で調べると、小臼歯から第一大臼歯までは固有咬合面の遠心頬側に集中し、第二大臼歯ではやはり頬側だが近心から遠心にかけてのやや広い範囲に分布した。
軸の方向は必ずしも一定ではない。
咬合力が歯軸に沿って作用することを正常咬合の1要件と認める説はどうやら誤りで、下顎臼歯の咬合力は歯軸からやや遠心にオフセットした軸沿いに作用する。
歯根遠心面が近心面に比べて直線的であるなどは、咬合力作用線の偏倚の反映と想像される。
加藤 均先生が展開する<主機能部位咬合理論>は、下顎第一大臼歯遠心頬側咬頭から遠心咬頭にかけての内斜面を中心とする部分が硬固物粉砕の座であるとの知見に基づいている。
この歯の咬合面を咬合力合力レンチ軸が貫くのも、固有咬合面内でエナメル質が最も厚いのも、同じ部位である。
この記事のお問い合わせ先:阿倍野区西田辺のいえさき歯科
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