1本かけても噛む力は半減するかも!
人の歯にはいくつかの役割があります。
①食べ物を噛む(咀嚼)
②発音の助けになる(会話)
③顔立ちや表情をつくる(容貌)
なかでもいちばん重要なのは、それなくしては体の健康を維持できない"噛む"という働きです。
入れ歯をつくるとき患者さんが、まず希望するもの「よく噛める入れ歯」「よく食べられる入れ歯」です。1本また1本と歯を失うたびに食の楽しみから遠ざかり、自分の好物をあきらめたり、みんなと同じものを口にできない苦しみに耐えてきたのですから、「よく噛める入れ歯」を望む患者さんの気持ちは切実です。
しかし1本あるいは2本の歯を失った段階では、「噛めない」「食べられない」ことに対する危機感は、まだそれほど切実ではないことが多いようです。
「1本や2本なくても食べるのに不自由しない。隣の歯を削ってブリッジにするとか、入れ歯なんて年寄じみたものを口に入れるのはまっぴらだ」
そんなふうに考える人が少なくないのです、
もちろん私たち歯科医に向かって、直接はおっしゃいません。しかし歯を抜いて、次回はブリッジづくり、入れ歯づくりに入りましょうとお約束しても、来られない患者さんがときどきいるところをみると、たぶんそうに違いありません。
ある日こんな患者さんが、下顎の左奥歯が痛いといって来院しました。診察すると、一いちばん奥にある第二大臼歯のむし歯がひどく、歯周病も進んでウミが出ています。
これでは歯が痛いはずです。しかしむし歯や歯周病よりもっと目立っているのは、反対側、右の第一小臼歯が、ほとんど無くなっいることでした。
話を聞くと10年ほど前にむし歯の治療で神経を抜き、クラウンにしたけれど、数年前に外れてしまい、そのまま放置していたら、いつの間にか歯がなくなってしまったというのです。
神経を抜いてあるので、痛みのないままむし歯が進行したのでしょう。レントゲンで見ると歯根もすっかりダメになり、もうクラウンもできない状態になっています。今この患者さんが苦しんでいるむし歯や歯周病も、この欠損と無関係ではありません。
1本でも臼歯が失われると、通常の噛み方がむずかしくなります。歯のない側はうまく噛めないので、反対の歯だけで咀嚼するようになるのです。
この患者さんも無意識のうちに左だけで噛んでいたのでしょう。そこに過剰な負担がかかり、むし歯や歯周病を悪化させてしまったと考えられます。
「なぜ、クラウンが外れたときに治療しなかったのですか」
と尋ねてみると返事はこうでした。
「痛みもないし、食べるのにも不自由しなかったものですから」
1本や2本、歯がなくても不自由しないというのは間違いです。歯が1本抜けるたびに、噛む力は確実に低下します。とくに食べ物をすりつぶす役目をしている臼歯の場合は、1本で50%も咀嚼能力が落ちるといわれています。たった1本抜けるだけで、噛む力が半減してしまうのです。
しかし患者さんは、噛む力の減少をなかなか自覚できません。歯のある側で噛むようになり、そのうち片側だけで噛むことになれてしまいます。
不自然な状態に対する慣れほど怖いものはありません。本人に自覚がなくても、咀嚼力は低下したままですから、その影響がいろいろなところに現れてきます。
この患者さんの問診表を見ると、糖尿病のあるなしを問う欄に〇がついています。そういえば、体も少々肥満気味です。もしかするとその糖尿病や肥満も、1本の歯を失ったことと関係しているかもしれません。